横山玄太郎
アメリカ留学中に陶芸に出会った横山の作品には、よい意味で「日本の陶芸っぽさ」がない。それは、造形の美しさや正確性よりも、発想力を磨く教育環境の中で制作に取り組んできたことに起因する。
重視されていたのは、「自分にしかできない」表現であること。
そこでは誰も見たことがない意外性のあるオリジナルな作品が求められていた。
こうして横山は、陶芸の素材を使いながらも、ごく自然にアート性の強い作品を生み出してきた。
横山の作品の特徴は、つるりとした表面、明るい色づかい、水玉やストライプといった柄、そして形と色の、意外性のある組み合わせである。
それらは、横山が陶芸とどのような関係を築いてきたかを示すとともに、彼という人間のユーモア、明朗さなどが表れたものだ。作品を見た人を喜ばせ、幸せにしたいというやさしい思いが、オーラとなって作品の周囲に漂っている。そしてそれは鑑賞者に、なにかポジティブな変化をもたらす。
人に可愛がられ続ける作品には、何が必要か?
そのテーマを掲げるなかで、横山がたどり着いたのは作品に「動き」を与えることであった。
火や波や木。人は、自然に動いているものに興味を持つ。
一見動きのないように見える陶芸にも、「動き」はどこかに隠れている。
伝統的な工芸にも、裂け、割れ、垂れといった動的なものは見られる。
しかし、横山が求めるのは、いかにも「陶芸」といった「動き」ではない。
弾力を想像させるような造形、歩くようなそぶりを見せるステム、リズムを感じさせる水玉。ときに重力に従い、ときにそれに反するかのような表現によって、横山の作品には、陶芸らしからぬ「動き」が生み出されている。
作品はわが子と語る横山にとって、それぞれの作品がそれぞれの場所で、長く愛されることがなによりも重要だ。そのための表現であり、作品は人のために存在する。
ひとつの作品によって、人々をどれだけ幸せにできるか。
誰かの日常に寄り添いながら、その誰かに幸せをもたらす作品を、横山は今日も発想し続ける。
B-OWND
アメリカ留学中に陶芸に出会った横山の作品には、よい意味で「日本の陶芸っぽさ」がない。それは、造形の美しさや正確性よりも、発想力を磨く教育環境の中で制作に取り組んできたことに起因する。
重視されていたのは、「自分にしかできない」表現であること。
そこでは誰も見たことがない意外性のあるオリジナルな作品が求められていた。
こうして横山は、陶芸の素材を使いながらも、ごく自然にアート性の強い作品を生み出してきた。
横山の作品の特徴は、つるりとした表面、明るい色づかい、水玉やストライプといった柄、そして形と色の、意外性のある組み合わせである。
それらは、横山が陶芸とどのような関係を築いてきたかを示すとともに、彼という人間のユーモア、明朗さなどが表れたものだ。作品を見た人を喜ばせ、幸せにしたいというやさしい思いが、オーラとなって作品の周囲に漂っている。そしてそれは鑑賞者に、なにかポジティブな変化をもたらす。
人に可愛がられ続ける作品には、何が必要か?
そのテーマを掲げるなかで、横山がたどり着いたのは作品に「動き」を与えることであった。
火や波や木。人は、自然に動いているものに興味を持つ。
一見動きのないように見える陶芸にも、「動き」はどこかに隠れている。
伝統的な工芸にも、裂け、割れ、垂れといった動的なものは見られる。
しかし、横山が求めるのは、いかにも「陶芸」といった「動き」ではない。
弾力を想像させるような造形、歩くようなそぶりを見せるステム、リズムを感じさせる水玉。ときに重力に従い、ときにそれに反するかのような表現によって、横山の作品には、陶芸らしからぬ「動き」が生み出されている。
作品はわが子と語る横山にとって、それぞれの作品がそれぞれの場所で、長く愛されることがなによりも重要だ。そのための表現であり、作品は人のために存在する。
ひとつの作品によって、人々をどれだけ幸せにできるか。
誰かの日常に寄り添いながら、その誰かに幸せをもたらす作品を、横山は今日も発想し続ける。
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